車の洗車を話題にするとき、
それは洗車機を通すことなのか、洗車サービスに頼むことなのか、
自分で手洗いすることなのか、
について確認することから始めることになる。
俺はというと、洗車は手洗い派である。
なぜか?と聞かれれば、
愛情をかけているから。だと思っていた。
大体これで通る。誰もそこについて深く聞くことはなかった。
しかし考えてみたら、なぜ手洗い=愛情をかけている、と言えるのか。
いちばん格上の洗車方法は?
先日のことである。
とある人が、「その時は、ちゃんとお金をかけて洗車機で洗ったからね~」と話しているのを聞いた。
俺にとって、洗車機は手洗いが面倒な人が使うものだった。
しかし、その人にとっては、洗車機は手洗いより上位なのかもしれないのである。
そもそも愛情を掛けた洗車とは何なのか。
愛情を掛けた洗車=手洗いで時間をかける、ということだと固まった考えがあったが、
愛情を掛けることとは綺麗に洗うこと、だとすれば、
プロの洗車サービスに頼むことが一番きれいになるはずである。
頻繁にプロに洗車を頼んでいる人が、一番車に愛情を掛けているのか?
その愛情の示し方は適切なのか
振り返ると、
どうやら俺は車に対して時間を掛けることを愛情だと考えているのかもしれないが、
人によってはお金を掛けることであったり、
より綺麗にすることを上位と考える人もいるはずなのである。
そういう人からすると、俺は安く済ませようと自分で洗ってる人だったり、
無駄に素人作業で表面をこすって車を傷めている人、なのかもしれない。
自分が思う愛情の行動が、他の人が思うものとは違うかもしれず、
愛情があるなら、誰もがこうするはずだ。というのは思い込みであって、
伝わらないかもしれないし、
人からは同じ形では示されないかもしれないということを、
洗車話から、ふと意識した出来事であった。
愛情とは気持ちだから、
行動で愛情について理解を求めるのは、独りよがりになるのか。
理解を求めるから上手くいかないのか。
これからの洗車
やはり、行うべきは無償の愛というやつだ。
理解を求めるから上手くいかなくなるに違いない。
話がそれているが、
結局、これからも俺は愛情を掛けて、
車を手洗いすることにする。